ブログに好きなことを書くために決めておくべき1つのこと

ブログ運営

「好きなようにブログを書きたい自分」と「ニーズを見極めて、読み手のメリットだけを考えて書くべき自分」、この2つの間で揺れることがある。

よく考えるとこの2つは何も相反するものじゃないと思う。

読み手のニーズがある、メリットのある記事をたくさん書けばいい。

一言にまとめるとこうなんだけど、なぜかそこに少しだけ引っかかる自分がいて、いやいや、ある1つのことが定まっているなら、自分の好きなように、たくさん書いたほうがよくね?と思っている。

ブログに何を書く?

書く内容2パターン

自分の中で、ブログ記事は大きく分けて次の2つのパターンに集約されると思っている。

  • 自分の日記や意見
  • 問題解決

このいずれか。

そして、書くなら後者の問題解決につながるものを書きなさいというアドバイスを多く見る。セオリーだとも思う。そういう記事は検索結果に上位表示されやすく、そこから付随していろいろなメリットがある。

だから日記的なものは書かなくていいよってことだし、これはこれで大正解の大正義だと思っている。

なのに、自分は日記的なことや意見を書きたいと思っていて、一応、自分なりにそこにはメリットがあると感じている。

一般庶民の他人の日記のニーズは薄い

日記的なことを日記的に書くことにはメリットはないとは思う。

厳密に言えば、それにメリットがある人は限られる。有名人や著名人の1日の動きを記したものならメリットがある。つまり、知りたいと思う人が居て初めて日記を公開する意味が出てくる。

僕のような一般大衆の日記を書いたところで、それを読みたいと思う人がどの程度居るのか甚だ謎である。

 

ブログ記事は”読み手”が居て初めて成立するという考え方がセオリー。ニーズがある事を書くであったり、有名人や著名人が日々の事を書くであったりは読み手が居るからで成立している。

なのに、好きなように書いても良いんじゃんと思っている自分が居る。

コンテンツマーケティング的記事の弊害

記事に個性がない

ニーズ重視で記事を書くと、そこに個性が出にくいよね…と感じている。どうしても、誰が書いても同じような記事になりがち。

 

ニーズを満たそうとすると検索ワードというニーズを満たすことを優先することがセオリーとして確立されている。

今の検索エンジンは網羅的な記事を好んでいて、最近は権威性や専門性のある人の記事を好む傾向にある。それそのものは検索エンジンの役目としては当然の流れなのかもしれない。

ただ、検索エンジンが好むような記事、つまり検索ニーズを満たそうとすると、どうしても似た記事を書くことになってくる。なぜなら、検索エンジンが好む記事の傾向にパターンがあるから。

また、専門家というだけで本来は個性的な存在なのに、同業他社の専門家もよってたかって似た記事を書くので没個性の記事が揃う。しかし、内容は確かなものなので上位に表示される。

それでも専門家の記事だから”良い”のか?

これは僕の最近の体験として思ったことなんだけど。

先日母親が認知症であることが確定し、それに伴って財産管理のことを真剣に考えなくてはいけなくなってきている。

その過程で調べ物をしていると、「認知症になると口座は凍結される」という文言をあちこちで見た。そういうモノなのか…と認識し、そのことを母の入院している病院の方に話すと「え?そういうケースもありますが、必ずそうってことじゃないんですよ」と言われた。

ケースバイケースなんだよというしごく当たり前の話ではあるが、検索上位の記事を読めば読むほど、ほぼ確定で今すぐにでも口座凍結しそうだと思えてくる。

なぜそう感じたのか?

そういう方向性の記事が多いから。なぜその方向性の記事が多いのかというと、書いた専門家さんたちのお仕事につなげるための記事だから。情報を提供し、そこからこういう人たちに依頼をしなくちゃねと思ってもらうための記事だから。

これは専門家の記事が上位に固まることの弊害だと僕は思うんです。

専門性が高い確かな情報が検索上位に固めるということは良い事だけど、その専門家の利益に誘導する記事も上位に固まることで、情報の全体の方向性が少し歪むと思っている。

検索ニーズを満たすためだけの記事は誰かが書く

つまり、何が言いたいのかというと…

  • 検索ニーズを満たす記事はパターンが決まっている
  • 検索ニーズはすぐに誰かが埋めにいく
  • 利益に誘導する意図がある記事が上位に多い

この3つ。

検索ニーズを満たせる記事は網羅性があり、なおかつ権威性がある人の書いた記事であることが求められる。結果、似た記事が上位に乱立する。その時点で記事に個性はない。

1位の記事を見て情報を得て、2位や3位の記事を見て、その内容は正しいのか、漏れはないか?というダブルチェックに使うという使い方をするだけで、記事を通して書き手の人となりに触れることはまずない。

でも、検索上位に表示されるのが記事としての正解の在り方とするなら、記事を書いた人は没個性の記事であってもOKとなってくる。

 

しかも、それらの記事を書いた専門家は、自身の利益に誘導したいので、自然な形でそれとなく自身のビジネスへと誘導している。さじ加減をかえて、依頼したほうがいいのかな?と感じさせる記事を書いている。

それが目的で記事を書いているのだから、当然と言えば当然。でも、そういう誘導に気付いた段階で、どこまでその情報は正しかったんだろう?という疑問も感じるはず。

僕の先ほどの話のように、即座に口座凍結されると思って焦っていたら、そうとも限らないよと病院の方に教えてもらって「あれ?」と違和感を感じたりしたら、ネットの記事なんて信用できないな…となってくる。

でも、今の検索エンジンは網羅性と権威性を重視するので、そういう専門家の書いた、利益誘導型の記事が上位にひしめいている。

そんな検索上位表示争いをすることが、果たして長い目で見て良い事なんだろうか?

自分の好きなように書きたいように書くために

体験や経験は時に専門家より価値がある情報である

そこで改めて思うのが、自分の好きな通りに書く、伝えたい事を伝えたいままに伝えるというスタンスで記事を書くほうがいいんじゃないかな?ってこと。

例えば、先ほどの僕の例を挙げると、”母が認知症になったので底辺アラフィフ長男が財産管理のためにやったこと”と言う記事を書けば、専門家ほどの専門性が無くても価値はあるんじゃないかな?

無理に専門家に頼らなくていいであったり、専門家に頼るほどの費用が無いから自力でここまでやりましたって体験談のほうが読みたいんじゃないかな?

読みたいって人、1人は居るよね?

 

ただ、そういう記事は検索結果の上位に行くとは限らない。下手すりゃ誰の目にも触れない可能性すらある。だから、そんなものは書いても無駄って思うのもわからないでもない。

しかし、それでも、専門家と張り合った検索エンジン対策バリバリの記事を素人が書くよりはマシだし、専門家の書く利益誘導型の記事に辟易としている人に対しては存在感を発揮できるかもしれない。

なんなら、同じ境遇の人がいる!ってことで、読み手が自身のファンになってフォローしてくれるかもしれない。

 

ニーズ追求型で記事を書こうとすると僕が言っていることは不正解だと思う。

だけど、ニーズを追いすぎずに自身の体験や経験を記事にすると刺さる人がいるんじゃないかな?って思うんですよね。

コンセプトこそが大切

ブログを運営する時にはコンセプトを決めろってよく言います。コンセプトとは何かというと、次の構文に穴埋めして完成される、その行為や存在の目的と言えるもの。

  • 誰に対して
  • 何を提供するのか

この2つが満たされたものがコンセプトです。

自動車のキャッチコピー的なもので「乗る人に喜びを」みたいなものが時折ありますが、これもコンセプト的なものです。乗る人に喜びを感じてもらうために、どんな工夫がされているのかがその車のウリになるはずだし、作る側も意識することではあります。

ブログ運営も同じで、このコンセプトの部分を決めてしまって、そこにブレなければ好きなように書けばいいんじゃないかな?と最近思っているんです。

コンセプトにメリットがあればOK

どういうことかというと、例えばコンセプトをこんな風に決めたとします。

  • 誰に対して … 同世代の人に向けて
  • 何を提供するのか … 節約できたことを伝える

これをコンセプトにすると、あとは同世代に向けて、節約できたことをひたすら書けばOKってことです。

コンセプトにメリットがすでにあるなら、そのコンセプトに基づいて行う行動は、自然と相手のメリットに繋がっていきますから、コンセプトさえしっかりしていればOKだと言えます。

 

例に出して申し訳ないですが、僕が母の財産管理のために読んだ記事は、結局は自身のメリットのために記事を書いているということになっているはずです。

  • 誰に対して … 自分自身のビジネス
  • 何を提供するのか … 財産管理ビジネスのオーダーを増やす

これがメインコンセプトでブログ記事を書いているはずなので、どうしても文章の端々に誘導するような意図が感じられるものになっています。

それが読み手のメリットになる誘導ならまだしも、まだ情報を得たい段階で誘導されるのは読み手のメリットになってるのかな?と疑問に思えて仕方がないわけです。

ブログを作る時に意識しておきたいコンセプト3点

つまり、ブログを運営するにあたってコンセプトを決めてしまい、その範囲内で記事を好きなように書いていいんじゃないかな?と僕は思っている。

できれば、次の1つの要素を加えて、3つを明確にして、それにブレないように書けばいいんじゃないかな?と。

  • 誰に
  • 何を提供するのか
  • 誰が

誰にと何を提供するのかの2つがコンセプトとして大切ではありますが、そこに加えて、誰がという部分も明確にしておいたほうがより良いんじゃないかな?と思っています。

このコンセプトは今の僕がこのブログにおいてのコンセプトとして位置付けているものですが・・・

  • 誰に … 頑張っている人
  • 何を提供するのか … 手紙を送る
  • 誰が … 底辺アラフィフ男性

こんなイメージです。

この記事を書く前日に、上記の母の認知症関連の調べ物の体験をあれこれ考えながら「コンセプトを固めよう」と思い至り、自分の思いに合致するものとして急遽決めたコンセプトです。

そして、この記事は、ブログ運営を頑張っている人、頑張ろうとしている人に、思うように書いても良いよって手紙を送るつもりで底辺アラフィフ男性が書いています。

誰がの部分があまり関係ない記事ではあるけど、ぼんやりと意識して書いてます。

だから…

ブログは好きなように書いていいと思うんです。

読み手のニーズを満たそう!って考えるのも大切ですが、コンセプトがすでに誰かのニーズを満たすことに繋がっているのなら、そのコンセプトに基づいた記事は自然とメリットになっているはずです。

 

実はこの記事を書く前に「書こうかな…」と思っていた記事がありまして、それが底辺アラフィフ男性から米農家へのお手紙のような記事です。

米の値段が上がっているけど、米が足りない、高い高いと不平不満ばかりが米農家さんの耳に届いているのではないか?僕のような底辺には米価の高騰はきついけど、それでもお米はとてもありがたい存在なんですよってことを記事として書こうかな…と思ってました。

これが米農家の方に届くのかどうかはわかりませんし、わざわざ米農家さんが自身への感謝を書いた記事を検索をしないだろうし…って思うと、現時点でニーズがないことをやろうとしているわけです。

でも、頑張っている人に手紙を送るつもりで記事を書くというブログコンセプトの下では、その記事は書かない理由がないんです。むしろ書くべきです。

このニュアンス、伝わりますでしょうか?

コンセプトがすでに誰かのニーズに繋がっているのなら、そのコンセプトの下にあるものは誰かのニーズを満たすことに繋がっています。

 

ちょっとうがった見方、そして、厳しい言い方をすると、好きなことを書いていいのか?を悩んでいる時は、そのブログ運営のコンセプトが、”自身の利益のために”というものが第一に掲げられているから迷うんじゃないかな?なんて思ったりもしますよ。

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