ブログをなぜ書くのか?
この理由の1つに「自分のことをさらけ出す練習」というものがあると僕は感じています。
自身の記録でありつつも、自分という人間を知ってもらう啓蒙活動ではあるけど、その根底や原点には自己成長のがあると思っている。
そして、そこにはせめて自分は自分のアンチでいちゃいけないなんて思いもあったりします。
自分をさらけ出す練習をするという考え方
自分をさらけ出せない要因
自分をさらけ出せない人はこんな要因を抱えているからだと言います。
- 過去に自分を出したことで傷ついた経験(例:否定された、笑われた、仲間外れにされたなど)がトラウマとなり、自己表現を避けるようになる
- 自己肯定感が低いので「自分には価値がない」「どうせ自分を出しても…」という思考に陥りやすい
- 完璧主義が強すぎて、「ありのままの自分では不十分だ」「完璧な自分でなければ受け入れられない」と考えがち
- 「人にどう思われるか」を過度に気にする「他人軸」の傾向が強いと、自分の気持ちよりも周囲の評価を優先してしまう
- 自分を出すことで、人間関係や環境が変わるかもしれないという不安
ぎゅっとまとめると、”ありのままの自分は不完全で自分自身でも許せないぐらいに嫌いだから、そのままの自分を出すわけにはいかない”なんてものが根底にあるのだと思います。
どうです?あなたにも心当たりがありませんか?僕にもあります!
だからこそわかるのですが、どれか1つではなく、複数が複合的に絡み合っているんですよね。
まずはそういう自分を許して認める。それを小さく始める。そんなことが効果的だよってこともその手の書籍などでよく書かれています。
それができれば苦労しないよ…ってところになりますが、僕はその一環としてブログ運営は使えるんじゃないかな?と思っているんです。
自分の事を嫌いじゃないかもと思うためのブログ
ブログを書いては消してを積み重ねた自分を分析して分かる事
そもそもとして、僕自身は何かを書くということそのものはそれほど嫌いじゃない。日記を書いているし、ブログも立ち上げては消して…を繰り返しまくって1,000記事近くを書いては消してをしてきた気もするので、むしろ好きな部類だと思っている。
ただ、それじゃいかんな…と。時間を無駄にしているだけだな…と。
長期的視点にたってブログ運営をしていこうと考えて思って、一度ちゃんと自己分析をしてみたんです。
そこで分かったのが、「あー、俺は自分が嫌いだから、誰かに自分を評価してほしい、認めてほしいと思って運営したたんだな」ってのが分かってきたんです。
満たされずに膨れに膨れ上がった承認欲求を満たしたくて書いていたなって。
これがちょっと曲者というか、これを原動力にしてスタートさせるとうまくいかないんです。
承認欲求を満たすために別人になる
承認欲求が満たされない状態って、ここ数年で市民権を得た言葉だと思うけど、多分、それ以前にも似た言葉は色々あったと思う。
承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる。
承認欲求 - Wikipedia
ウィキペディアさんの説明がとてもシンプルでわかりやすいんだけど、要するに「構ってちゃん」だし「ええ格好しい」になっている状態が承認欲求が肥大化している状態です。
この自分の中の構ってちゃんを満たしたくてブログを運営しようとするとたいていダメなんですよ。なぜダメになるかっていうと、次のような事が頭の中でいっぱいになるから。
- 多くのアクセスを集めたい → 人気があると思いたい
- 出来る人を演出しなくちゃいけない → 褒められたい
- 正解の記事を書こう(無難に行こう) → すごいと言われたい
僕の場合、こんなことで頭の中がいっぱいになるんですよ。そして、その脳内イメージの果ては「自分自身を世間がよく知ってて人気者」だったりするんです。
これそのものは不健全な気がしませんよね?
ところが、その願望をひと掘りふた堀りすると、その下には次のような事が隠れているわけです。
- 今の自分はそういう評価を受けるに値していない
だから、少し演じなくちゃいけないし、全く別人のような未来にあこがれたくもなるのです。
つまり、少し上で書いた自分をさらけ出せない要因がそこにはちゃんと存在しているんです。
- ありのままの自分なんて認めたくない、不完全な自分ではダメだ
これを抱えながらブログを立ち上げて、記事を書いて…を繰り返していたのです。自分の良い部分だけを過度に強調しよう!というスタンスで書いていたのです。
だから、疲れてたんです。消耗して、イヤになってたんです。
自分嫌いがブログを運営すると自分を傷つける
今の自分が嫌い。そこを起点にするなら、まずは「自分を嫌い→自分を嫌いじゃない→自分を好きかも→自分を好き」って進むためのアプローチを考えるべきなんじゃないかな?とか思うんです。
毎日自分を褒めるとかね。
でも・・・
- 嫌いな自分を覆い隠し、全くの別人格を演出する
こういうアプローチをとるとあまり上手くいかない。
なぜなら、それは自分による自分へのアンチ活動だから。今の自分を否定して、別人になれ!と仕向けているアンチ活動であり、セルフ虐待だから。
そして、自分を偽って表現したとしても、それは小さくとらえると演出かもしれませんが、大きくとらえると嘘とも言えます。
嘘を認めてもらったところで本当の自分のことじゃないし、演出を褒めてもらったところでそれもどこか自分のことじゃない。自分の半分だけを受け容れてもらっているような気分にもなるわけです。
素の自分、本当の自分を認めてもらってないので満たされないし、むしろ、認めてほしい、受け入れてほしいと思っているのは、そういう部分だったりします。
でも、「不完全な自分を出してはだめだ!」ってことで自分自身を押さえつける。そういう事の繰り返しになり、イヤになり、ブログ更新をしなくなり、記事を全消しするというのが、僕の過去のブログ運営パターンになりつつありました。
そんな自分をやめよう、自分をさらけ出そうと思って運営を開始したのがこのブログだったりします。
自分をさらけ出すのが怖いからこそブログで素を出す
自分をさらけ出すというのは簡単じゃないかもしれないし、ダメな自分を認めて受け容れるというのも、心理的にとてつもない抵抗があります。今も「書きすぎだろ?」「さらけ出しすぎだろ?」と思う自分も居ます。
でも、それでOKなのです。
過去の自身の経験を踏まえると、自分をさらけ出さないブログは続けるほど息苦しくなります。だから自分を出さないのは絶対に避けるべきなのです。
あまりさらけ出しすぎて自分以外の誰かに迷惑をかけることは避けたいけど、自分限定のことならさらけ出せる範囲はさらけ出すほうが、結果的に良いんじゃないかな?と思っています。
なぜなら、僕にとってのブログ発信は「ダメな自分でええやんか、そんな自分でもええやんか」ってマインドを育てるための一環でもあるからです。
さらけ出すことで自分が恐れている事態が起きるのではないか…という思い込み。でもそれは起きなかったという事実を積み重ねることで、思い込みを変えれると信じているからです。
- 「自分のこの部分はダメだ」と思っている。こんな自分を出せば全員から嫌われる、怒られる。
…と思っていたのに、思っているほどダメだしされない、嫌われることもない。そういう経験が積み重なることで思い込みを書き換えることができると思っているのです。
時には嫌われたり、怒られたりするかもしれません。でも、それは1分の1の確率で起きる事なのか。1,000分の1で起こる事なのか。それが分かるだけでも大きな違いになってきます。
もし1,000人のうちの1人がそう反応したなら「999人は怒らないのか…」と解釈もできるし、もし1,000人見たら1人は共感や応援をしてくれるということも同時に分かると、「同じ割合で高評価もしてくれるのか…」という解釈が自分の中に生まれてきます。
この変化って大きいと思うんですよね。だって今までは自分自身が自分を否定したことによって1/1=100%でアンチしかいないと思い込んでいるのですからね。
その思い込みを打ち壊すようなデータが自分の中で経験値として蓄積されていく。それが自分を変えることになると思うんですよね。
とはいえ、素の自分を出すのは怖いのはそう簡単には変わりません。これは素っ裸で屋外を走る感覚に近いのかもしれないとも思っています。
でも、その怖さを乗り越えた数だけ「今の自分でもOKなのかな?」と思えるようになるはずです。でも、怖い…だから、自分をさらけ出す練習の場としてブログを運営してみるって発想もアリなんじゃないかな?とか思っています。
もしあなたが同じような事を思っているのなら、偽らない自分をさらけ出せる場所としてブログを運営してみるというのは個人的にはオススメですよ。
で、ここまで読んでみて。
そんな重めの理由でブログをやってんの!?って思ったかもだけど、あくまで過去の自分を掘り下げてみたら…ってことであって、ブログをやろうと思っている理由はそのものは実はシンプルです。
- 書くのがまあまあ好き
これが根底にあるだけです。で、それが誰かの役に立てば儲けもんやん?みたいなね。そんな感じです。
料理が好きな人が、友達などに料理を振る舞いたくなるのと同じです。
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